平福獅子舞の歴史
平福獅子舞のおこり
おこり
平福のある長老は生前家の人に「平福の獅子舞は、池田の殿様の前でも舞ったことがあるほど古いものだ。」と話していたそうです。残念ながら、そういう話を聞いたことがある人は他にはいません。大方の人が聞いている話は「児島半島のどこかで習ってきた。おそらく、玉野市八浜の波知だ。」というものです。ある人は「3、4人が泊まり込みで習いに行ったのだ。100年程前に誰それの親父さんが行ったらしい。」と言い伝えていますが、それが獅子舞の始まりであったのか、再興であったのかは不明です。今でも児島半島のあちらこちらに獅子舞が残っています。集落ごとに笛や舞が異なり、随分違うものになっていますが、確かに玉野市八浜町波知地区に伝わる獅子舞は、ほとんどの舞と笛の節が平福獅子舞と同じです。しかし、平福の獅子舞にある子供の舞(一本舞・二本舞)が波知地区の面の舞とは全く異なるものである等の違いがあります。ともあれ、「船で児島半島辺りに漁に出ていた平福の住人が笛の音を聞き、その獅子舞を習ってきた。」というのが、平福獅子舞のおこりではないかと推測されます。何もない干拓地の人々の暮らしの中で数少ない楽しみの一つとなり、五穀豊穰、家内安全のお祓いでもあり、村の人々に大事な事として受け継がれてきました。
平福獅子舞の奉納
奉納
9月14日、妙見様のお祭りの日、妙法寺妙見堂の前で獅子舞が奉納されました。この日は昼過ぎに小中学生がリヤカーにむしろ・太鼓などを乗せて運んで行き、妙見堂の前にそのむしろを敷いて急ごしらえの舞台を作る。堂の中では獅子頭と舞手がお祓いを受けたのち衣装を着け出番を待つ。夕暮れを待って照明が点る頃、堂の中から笛の音が響くと共に、舞手が堂の中から現れ、舞を披露してまた堂の中へ消えて行くといった幻想的な舞台でした。舞が終わるとお寺で用意して頂いた、ばら寿司(岡山のちらし寿司)をご馳走になるのが習わしでした。戦後のある時期、具にいりぼしと卵焼きの代わりにたくわんが入っていた年がありましたが、これがまた大変美味しかったそうで、当時の子供にとってはこの「ばら寿司」が目当てでした。ご馳走になった後、小中学生はまたむしろを積んでリヤカーを引いて帰る。青年は街へ繰り出したり、” お通夜 ” といって、一晩お寺に泊めてもらい、翌日朝食も振る舞われて帰ったものでした。夜の間に本堂のお供えは勝手に下げられ、有り難く頂戴したりもしました。特に家では口にすることのないマスカットなどは最高のもので、もちろん一升瓶も。仏前に残ったのはお供え餅(おすわり)だけでした。ある年、夜遊びして朝寝をしたい青年達は、朝早く住職さんが朝のお勤めをされるのがうるさいからというので、太鼓と打ち鳴らす棒を隠してしまったことも。住職さんは「打ち鳴らしはどこだ、また隠したな…」と探し回って…、それでも笑って許してくれたという懐かしい思い出もありました。
10月24日、玉井宮の大祭があり、獅子舞の奉納に出掛けました。車はなく、自転車に太鼓・衣装等の荷物を積み分けて出発。夕方より本殿で獅子舞を奉納した後は、先輩達は後輩に荷物をまとめて自転車に積ませて持って帰らせ、自分たちは街へ遊びに行ったそうです。後輩達は荷物が多過ぎて、帰りの自転車の運転は困難を極めました。
*妙法寺住職夫人岡崎治子氏談
祖父の先々代住職岡崎観是は、青年の育成に必要であると、獅子舞を奨励していました。祭りの日には6升のちらし寿司を作りました。敗戦後の物資のない時代、祖母はなんとか食べられるものをと、具と味付けを工夫していました。”お通夜”のために、夏の布団の洗い直しを先延ばしにしたので、終わると急いでやらなければなりませんでした。獅子舞が中断する時、住職の「記録を残さなければ」との考えから、当時平福獅子舞で名人と謳われていた方の笛を本堂でテープに録音しました。(残念ながら、この時のテープは失われてしまいました。)
獅子舞の練習と継承
練習・継承
イ草の収穫をお盆までに済ませ、お盆過ぎから9月13日までの1ヵ月間、雨が降らない限り毎晩練習をしました。夕方、笛がヒュ〜リヒャラ、オッヒュッヒュ、太鼓がトントンッと鳴り始めると、夕食もそこそこに子供達は練習場所に集まり、3時間位も練習しました。練習場は公会堂や村人達の家の庭先でした。
子供達は小学1年になると毎年練習に参加。毎日何回も練習をしたので、身体が自然に覚えて動くというところまで身に付きました。やむなく獅子舞が中断して、約30年後に復活した時太鼓が鳴ると往時さながらに舞うことができたのも、この練習の賜物と言えます。教え方は手取り足取りではなく、「見とれ」と言ってたまに先輩が舞って見せてくれるだけで、後は「踊ってみい」。口は出してくれるが、子供達は主に見様見真似で覚えたそうです。
青年達の練習は子供達の練習が終わった後夜遅く始まり、これも細かい教えなどはなく、先輩の舞を本番の時や本番の直前の数少ない練習で(先輩はあまり練習に来ない)舞うのを盗み見して習いました。次の年までの1年間、農作業の合間に自分で振付けやアドリブを考えたり、どうすれば獅子が生き生きと見えるかと一所懸命に研究をしたそうです。疑問が湧くと先輩を訪ねる。この時は快く教えてくれました。田んぼの中で、農作業そっちのけでちゃんかご(綿摘みなどに使う背負いかご)などを獅子頭に見立てて、舞の研究をしていた人がいたと村の語り草になっています。小学生から青年にかけての男子は(特に長男は)獅子舞をやるのが義務だとされていました。ですから、大事な舞は長男にしか教えられていません。職人の道に進んだ人は見習いの間平福を離れるので練習を始めるのが遅れたりしました。
平福獅子舞の中断と復活
中断・復活
戦争が始まると、獅子舞の継承者である男性の中には戦地に赴く人も多く、戦争中は中断。戦後には復活、妙法寺住職の庇護もあり、村人もそれに応えてはりきって練習したので、素晴らしい獅子が毎年演じられました。平福獅子舞の隆盛期でした。しかし時代の変化とともに、今まで農業だけに従事してきた男性達に会社勤めをする者が増え、生活が段々変わっていきました。子供達の興味の対象も変わり、また獅子舞の練習に行くより、習い事や塾などに行かなければならなくなりました。獅子舞は後継者難に陥り、昭和37年頃を最後にやむなく中断。昭和28年頃、第1回岡山市農業祭で2位に選ばれたこともあり、岡山市の文化財に指定される動きもあった平福獅子舞。中断を惜しむ人達の中から復活の気運が高まり、遂に平成5年10月、永い眠りに就いていた獅子は目を覚ましました。
* 農業祭
山陽新聞社からの誘いで参加。祭りの行列は深柢(しんてい)小学校を出発→表八か町(ここで一本舞・二本舞をやった)→駅→山陽新聞社まで行進。新聞社前の道路を交通止めとし、各参加団体が演技を競った。